新婚旅行 4 日目「イースター島モアイ巡り」

今日は島をぐるっと回ってたくさんのモアイを巡る。

その前に早起きをして村の中を散歩。
My wife's and my shadows in Easter Island

港、ハンガ・ロア・タイ (Hanga Roa Tai) へ。

港のそばにはアフ・タウティラ (Ahu Tautira) がある。

近くにはサッカーコートのあるホトゥ・マトゥア広場 (Plaza Hotu Matua)、目印としてモアイもある。

ホテルへ戻って朝食を食べ、島巡りに出発。
まずはホテルのあるハンガ・ロア (Hanga Roa) 村を出てアフ・ハンガ・テエ (Ahu Hanga Tee)、別名アフ・バイフ (Ahu Vaihu) へ。

アフとはお墓の意味で、モアイは海の近くに内陸を向いて立てられている。これは海が食料となる魚の取れる重要な場所であり、そこに偉い人の墓を作ることで村を見守ってもらうという意味が込められている。また回りが海に囲まれており、近くに島もないので外敵に備えておく必要がない、つまり外敵を威嚇する必要もないのでモアイは内陸を向いて村を見守っている。
イースター島のモアイの多くは倒れた状態になっており、しかも綺麗に倒れている。これはフリ・モアイというモアイ倒し戦争がかつて起こり、その時に多くが倒されてしまった。村ごとにモアイを持っていたのだが、みんなモアイ作りに熱中し島の木々を倒してしまった。木が枯れ、食料がなくなってしまった。食料がなければ隣の村から奪う、そして村はモアイが見守っているのでその守り神を倒してしまおうということでフリ・モアイが始まったと言われている。
また、イースター島世界遺産に登録されたときに風景ごと登録されており、登録後は立て直しをするにも景観を変えてしまうので許可が必要となった。今は島全体を管理することが出来ていないのでしばらくモアイの立て直し許可は出ないといわれている。
最初に西洋人がイースター島へ来たときには 3m 以上の背の高いモアイはなかったそうで、大きなモアイほど新しいものということになる。
イースター島はしばらくの間イギリスにレンタルしていた時期があり、その頃多くの羊が飼われていた。その時に島の草は食べられてしまい、今では島の固有種はほとんどいなくなってしまった。今いる動植物は島の外から来たものばかり。かつては野生の動物も多くいたのだが、今では鼠くらいになっている。

次はアフ・アカハンガ (Ahu Akahanga) へ。

モアイのサイズが違うのは立てた年代が違うため。村の長が死ぬと台座を拡張して横に増設していった。

モアイの頭だけがころがっている。

倒れて首がもげてしまったモアイ

こちらはアフの工事中に台座が崩れてしまい、そのままモアイが放置されている。

なぜ立つ前のモアイであるかがわかるかというと、目の窪みがないからである。モアイというのは像のことを指し、目が入るとアリンガ・オラ (Aringa Ora, 生きている目) という名前に変わる。日本でも仏像には最後に目を入れて魂を吹き込むが、それと同じ様に目は生きている証ということだろうか。

Moai at AHU AKAHANGA

ここには洞穴があり、位の低い人 (低所得者) が住居として使っていた。位の高い人は台地に家を作りハレ・バカ (Hare Vaka) というボートをひっくり返した形をしていた。洞穴の入口にはかつてハレ・バカの台座として使っていたであろう石があり、位の高い人から譲ってもらったものを再利用したのだろう。

次の目的地への移動中にガイドさんから教えてもらったこと。現地人の言葉はタヒチ北部のマルクサス人の言葉とよく似ており、そこの地方から来た人ではないかと考えられている。また言葉の発音が日本語とよく似ている、生まれたときにはお尻に蒙古斑があり、チリ本土から来たお医者さんが赤ちゃんを見ると「誰がお尻を叩いたんだ!」と起こることがあるそうな。

ラノ・ララク (Rano Raraku) に到着。ここはモアイの製造工場だった山である。

モアイと言えばこのイメージ。バンダイビジュアルのマークとして使われていたモアイのモデルがこの 2 体なのでモアイは顔だけというイメージが強かったのだな。

ここには全長 21.6m の巨大モアイ・エル・ヒガルテ (El gigante, 英語で言う the giant, "gi" は "ひ" と発音する。巨人という意味) がある。ラパヌイ語ではテト・カンガ (Te Tokanga) と言い、みんなで作ったという意味がある。当時のロープの強度などから考えて物理的に立ち上げることが不可能なサイズなのでモアイ工場の看板の意味があったのではと言われている。

ラノ・ララクからはアフ・トンガリキが見える。これが次の訪問場所。

トゥク・トゥリ (Tuuk Turi) という名前のモアイ。Tuku Turi とはラパヌイ語で "ひざまずく" を意味する。その名の通り正座をしたモアイ。15 世紀頃に作られたと考えられている初期型のモアイだが、当時のものではなく大きなモアイ作りが流行っていた頃に原点回帰としてかつてのモアイを好んで作ってみた職人がいたのだろうと言われている。

モアイとは未来、子供という意味があり、頭に載せているプカオには穴、休養という意味がある。つまり子孫繁栄の象徴というわけだ。

立派な顔つきのモアイ・ピロ・ピロ (Moai Piro Piro)

ラノ・ララクにはたくさんのモアイと牛が共存している。
Many moai and cows

ラノ・ララクの入口そばにあるピクニックエリアで昼ごはんを食べて次の目的地へ移動。

アフ・トンガリキ (Ahu Tongariki) には 15 体のモアイが並んでいる。
アフ・トンガリキの入口には モアイ・ホトゥ・イティ (Hotu Iti) がある。

これは 1982 年に日本に来たことがあり、その時に運搬を行ったのはペリカン便だそうな。

アフ・トンガリキは祭壇が 98m、両側にそれぞれ 50m ずつウィングが付いている。17 世紀頃のモアイで 8m の高さのものもある。

ここは世界ふしぎ発見イースター島が取り上げられた回に当時のイースター島知事のセルヒオ・ラプがクレーン車があればモアイを立てられるという発言に対し、黒柳徹子さんがクレーン車を出したらどうだという発言をきっかけにタダノがクレーン車を提供し、日本とチリの協力の下に立て直された。

立て直しプロジェクトにはユネスコも関わっており、ここの立て直しが完了したところで世界遺産登録された (1995 年)。
クレーン車を降ろせるような港もないためチリ海軍が所有している戦車を運ぶような上陸用船舶を使ってクレーン車を持ち込み。回収することも出来ないのでそのまま寄贈となった。

ここのモアイは上を向いている。これは何故かというと、ボンドのような接着技術がないので 4m を越えるようなモアイは目を入れると落ちてしまう。そこで上を向かせて目を載せるようにしたためと言われている。

次の目的地はアフ・テ・ピト・クラ (Ahu Te Pito Kura)。アフの上に立てられたモアイとしては最大サイズのもの。手前の柵は馬を飼っているために立ててあるのではなく、モアイに近づかないように作った柵を馬が越えて入っているだけである。

テ・ピト・クラにはテ・ピト・オ・テ・ヘヌア (Te Pito O Te Henua) という丸い石がある。この石は磁気を帯びており、太陽を浴びてポカポカしている。

アナケナ・ビーチ (Anakena beach) にはヤシの木と白い砂浜。青い海がある。そしてここにもモアイが。
アフ・ナウ・ナウ (Ahu Nau Nau)。ここのモアイは倒れた後に砂に埋まっていたために保存状態がよく風化も少ない。博物館で見たモアイの目もここで見つかったもの。

アフ・ナウ・ナウはロイヤルな一族のもの。

ナウ・ナウの後ろにはアフ・アトゥレ・フキ (Ahu Ature Huki) がある。これはホトゥ・マトゥア (Hotu Matua) 王の記念碑であり、もっとも偉いモアイとされている。そのため立て直されたのも一番最初である。

これでイースター島巡りは終わり。夕食後に日の入りまで時間もあったので海岸で夕日とモアイを見に行くことにした。
Moais at sunset
Moais at sunset
Moais at sunset
Moais at sunset