新婚旅行 7 日目「世界遺産・キト市街」

今日はキト市街と赤道記念碑を観光。

キトは 1534 年にスペイン軍によって築かれた南北 55km の街。かつてはインカ帝国の一部でもあり、クスコもインカ帝国の一部だったので街並みが似ているそうな。旧市街地が 1998 年に世界遺産に登録された。
1000 年頃にキトゥス (Quitus) という人々が住んでいた。キトゥスとは "影がない" という意味で、赤道直下のため影が住んでいる人に影がなかったということだ。
13000 年前から狩猟民族がおり、火山のそばで取れる黒曜石を武器として使用していた。

エクアドルの教育制度は 5 から 12 歳は小学校 (義務教育)、12 から 18 歳は高校、18 歳からは大学となっている。驚くべきことに授業料はすべて無料。
また医療費も無料という。医療・教育が無料ということで税金はどうなのかというと、消費税が 12%、レストランではさらにサービス税が付加されて税金が 22% かかる。所得税は 5%、社会保障が 8% となっている。
季節は雨季と乾季の 2 つ。雨季は 12 月から 3 月の間。
産業は 1 位が石油で熱帯雨林で取れる。2 位がバナナで世界一である。3 位は観光。4 位は海老で輸出品となる。5 位は花木でバラの花を栽培して輸出している。
人種は 55% がメスティーソ。30% が原住民。7 から 8% がアジア人。7 から 8% が黒人となっている。
旧市街地はスペイン風コロニアル様式の建物が多い。

バスで旧市街地の中心まで移動。まずは独立広場 (Plaza de La Independencia) へ。
独立広場は中心に女神の像があり、その周りを市役所・教会・大統領府・聖職者の住む家 (店舗・オフィスも入っている) が囲んでいる。

傾斜のある場所に建物があるので地階を作り土台としている。

独立とはスペインからオ独立であり、女神は自由の象徴。コンドルはアンデスの鳥の象徴であり、女神像の足元には逃げ出すライオンの像がある。これはスペイン軍を表している。

独立広場から 1 ブロック移動したところにラ・コンパーニャ教会 (Iglesia de la Compania) がある。ここは 7 トンの金が使われている黄金教会である。1605 年に着工し 163 年後の 1768 年に完成した。火山帯の石を多く使ったカトリックの教会である。

入口は外の世界 (太陽神の世界) とカトリックの世界を分ける扉を表し、内装は天国と地獄の絵が向かいの壁に配置されているように左右対称となっている。
教会奥の天井には天使の顔が描かれているのだが、1 つだけ黒い顔をしている。これは 1996 年に火事が起こり、その時に焦げたものである。本当は全部焦げてしまったのだが、火事のことを忘れないように 1 つだけわざと修復せずに残してある。ステンドグラスも火事で溶けてしまったので今は普通のガラスになっている。出火したところにも金があるのだが、そこは補修したために他と比べて新しくなっていた。

ラ・コンパーニャ教会からさらに 1 ブロック移動するとサンフランシスコ広場 (Plaza de San Francisco) がある。ここにはサンフランシスコ教会 (Iglesia de San Francisco) があるので続いてそちらを見学した。

この教会はインカの宮殿があった場所にスペイン軍が造ったもので 1735 年に着工し 1805 年に完成した。元は正面がすべて金だったという。中庭にはヨーロッパから持ってきた白い大理石の噴水がある。19 世紀には南米でも大理石が見つかっているがこちらはピンク色だそうな。
建物の中にはドーム状の天井があり、ここの両端に人が立って一方からヒソヒソ声で話をすると反対側にいる人の頭の中に声が聞こえてくる。これは懺悔の時に使っていた。
他にも殉死した聖職者の像もあり、目を刳り貫いたり、頭が割れていたりした。

教会見学を終え、近くにある Tianguez というカフェで休憩。お菓子と一緒に高山病予防によい Mate de coca (コカ茶) を飲む。コカ (Coca) は化学物質を使って生成するとコカインとなるため日本への持ち込みは禁止となっている。広場では数人の小さな女の子が布を売っているのを見かけた。

再びバスに乗りパネシージョの丘へ移動。移動中に渋滞に巻き込まれてしまったが、ちょうど土曜日は丘の手前でマーケットが開催され、すごい人が市場に集まっていた。ここでは家具・服・食べ物と様々なものがそろっている。
キト市街ではバスもたくさん走っておりドアは常に開いている。呼べばどこでも乗せてもらえるシステムになっており、入口にはお金を集める人が常に立っている。
丘の家々は近年できた住宅街で、所得が中から低流の人が多く住んでいる。

パネシージョの丘 (Paque la Panecillo) は 180m の丘で標高は 3016m。頂上にある聖母像は 1975 年に完成し、キトと東洋の芸術要素が混ざっており手が舞踏的である。

パネシージョの丘からの眺め。

次はキト郊外にある赤道記念碑へ移動。最近は街の北部に市内の大気汚染や騒音を避けて 15 年ほど前から住宅街が増えている。軍、警察の養成学校も郊外にあった。道沿いにはココナッツをナイフで向いて売っている人もいた。

赤道記念碑 (Mitad del Mundo, 英語で言うと Middle of the World) は 1736 年から 1744 年にフランス人が赤道を測量した時にいた場所に立っている。当時はここに赤道があると信じられていたが実際に GPS で計測してみると 240m ずれているそうな。

入口には赤道を計測したメンバーの胸像があり、南半球と北半球をまたいだところには赤い線が引かれている。

昼ごはんは El Crater というプルラフワ火山 (Pululahua) の爆発によってできたクレーターのそばにあるその名も El Crater Restaurant で食べた。

前菜にエンパナーダというバナナで作った皮の中にチーズが入った揚げ物、ポテトとチーズのスープにアボガドを入れて食べるロクロスープ、メインは豚肉のから揚げ、デザートにパッションフルーツのムースが出てきた。アヒという辛いソースもあり、いろいろな食べ物につけてみるとおいしかった。

遅めの昼ごはん後はホテルに戻り明日に備えて夕食・就寝。

新婚旅行 6 日目「再びサンティアゴ、そしてキトへ」

午前中はサンティアゴ中央市場を見学し、昼過ぎに帰途へ移動する。

街中で UF というものを見かけた。ガイドさんに何かと質問してみると UF は固定価値を表し、UF - Peso 間の貨幣価値が変動する。家を買ったりお金を借りたりするときは UF が価値基準として使用される。

サンティアゴ中央市場 (Mercado Central de Santiago) は 1857 年に建てられ屋根はイギリスから輸入したものである。元々は農業機材の展示場だったが、今は市場として使われている。99% は魚介類を売っている店で活気に溢れていた。建物は駅のような外観で鉄筋である。

昼ごはんは中央市場内にあるエル・ガリオン (El Galeon) というシーフードレストランで食べた。ここでチリなどアンデス山脈西の海岸でよく出るセビーチェを食べることができた。一緒に飲んだピスコサワーもおいしかった。
サンティアゴは夏に雨が少ないため公園を緑化しており、レストランからは緑がたくさんの公園が見えた。

昼ごはん後は空港へ移動。5 時間 15 分かけてエクアドルグアヤキルへ。グアヤキルから 1 時間かけてキトへ移動した。

エクアドル (Ecuador) はスペイン語で赤道。英語で言うと equator という意味である。首都はキト (Quito)。
エクアドルの人口は 1200 万人で日本の 10 分の 1。キトの人口は 107 万人でエクアドルでは 2 番目に多い。1 番多いのは先ほど経由したグアヤキル (Guayaquil) で 300 万人。面積は 26 万 km2 で日本の 4 分の 3。言葉は 18 言語あり、主言語はスペイン語。貨幣は US ドルが使用でき、コインはエクアドルコインで返される。かつてはスクーレ (Sucre) を使用していた。
キトは標高 2850m にある街で高山病にかかることは少ないが水分はたっぷり取るように言われた。
街中は電線が多く 20 本以上かかっているところもあった。電気、電話以外に何の線が走っているのだろう?

ホテルに到着して夕食を食べ、明日に備えて就寝。

新婚旅行 4 日目「イースター島モアイ巡り」

今日は島をぐるっと回ってたくさんのモアイを巡る。

その前に早起きをして村の中を散歩。
My wife's and my shadows in Easter Island

港、ハンガ・ロア・タイ (Hanga Roa Tai) へ。

港のそばにはアフ・タウティラ (Ahu Tautira) がある。

近くにはサッカーコートのあるホトゥ・マトゥア広場 (Plaza Hotu Matua)、目印としてモアイもある。

ホテルへ戻って朝食を食べ、島巡りに出発。
まずはホテルのあるハンガ・ロア (Hanga Roa) 村を出てアフ・ハンガ・テエ (Ahu Hanga Tee)、別名アフ・バイフ (Ahu Vaihu) へ。

アフとはお墓の意味で、モアイは海の近くに内陸を向いて立てられている。これは海が食料となる魚の取れる重要な場所であり、そこに偉い人の墓を作ることで村を見守ってもらうという意味が込められている。また回りが海に囲まれており、近くに島もないので外敵に備えておく必要がない、つまり外敵を威嚇する必要もないのでモアイは内陸を向いて村を見守っている。
イースター島のモアイの多くは倒れた状態になっており、しかも綺麗に倒れている。これはフリ・モアイというモアイ倒し戦争がかつて起こり、その時に多くが倒されてしまった。村ごとにモアイを持っていたのだが、みんなモアイ作りに熱中し島の木々を倒してしまった。木が枯れ、食料がなくなってしまった。食料がなければ隣の村から奪う、そして村はモアイが見守っているのでその守り神を倒してしまおうということでフリ・モアイが始まったと言われている。
また、イースター島世界遺産に登録されたときに風景ごと登録されており、登録後は立て直しをするにも景観を変えてしまうので許可が必要となった。今は島全体を管理することが出来ていないのでしばらくモアイの立て直し許可は出ないといわれている。
最初に西洋人がイースター島へ来たときには 3m 以上の背の高いモアイはなかったそうで、大きなモアイほど新しいものということになる。
イースター島はしばらくの間イギリスにレンタルしていた時期があり、その頃多くの羊が飼われていた。その時に島の草は食べられてしまい、今では島の固有種はほとんどいなくなってしまった。今いる動植物は島の外から来たものばかり。かつては野生の動物も多くいたのだが、今では鼠くらいになっている。

次はアフ・アカハンガ (Ahu Akahanga) へ。

モアイのサイズが違うのは立てた年代が違うため。村の長が死ぬと台座を拡張して横に増設していった。

モアイの頭だけがころがっている。

倒れて首がもげてしまったモアイ

こちらはアフの工事中に台座が崩れてしまい、そのままモアイが放置されている。

なぜ立つ前のモアイであるかがわかるかというと、目の窪みがないからである。モアイというのは像のことを指し、目が入るとアリンガ・オラ (Aringa Ora, 生きている目) という名前に変わる。日本でも仏像には最後に目を入れて魂を吹き込むが、それと同じ様に目は生きている証ということだろうか。

Moai at AHU AKAHANGA

ここには洞穴があり、位の低い人 (低所得者) が住居として使っていた。位の高い人は台地に家を作りハレ・バカ (Hare Vaka) というボートをひっくり返した形をしていた。洞穴の入口にはかつてハレ・バカの台座として使っていたであろう石があり、位の高い人から譲ってもらったものを再利用したのだろう。

次の目的地への移動中にガイドさんから教えてもらったこと。現地人の言葉はタヒチ北部のマルクサス人の言葉とよく似ており、そこの地方から来た人ではないかと考えられている。また言葉の発音が日本語とよく似ている、生まれたときにはお尻に蒙古斑があり、チリ本土から来たお医者さんが赤ちゃんを見ると「誰がお尻を叩いたんだ!」と起こることがあるそうな。

ラノ・ララク (Rano Raraku) に到着。ここはモアイの製造工場だった山である。

モアイと言えばこのイメージ。バンダイビジュアルのマークとして使われていたモアイのモデルがこの 2 体なのでモアイは顔だけというイメージが強かったのだな。

ここには全長 21.6m の巨大モアイ・エル・ヒガルテ (El gigante, 英語で言う the giant, "gi" は "ひ" と発音する。巨人という意味) がある。ラパヌイ語ではテト・カンガ (Te Tokanga) と言い、みんなで作ったという意味がある。当時のロープの強度などから考えて物理的に立ち上げることが不可能なサイズなのでモアイ工場の看板の意味があったのではと言われている。

ラノ・ララクからはアフ・トンガリキが見える。これが次の訪問場所。

トゥク・トゥリ (Tuuk Turi) という名前のモアイ。Tuku Turi とはラパヌイ語で "ひざまずく" を意味する。その名の通り正座をしたモアイ。15 世紀頃に作られたと考えられている初期型のモアイだが、当時のものではなく大きなモアイ作りが流行っていた頃に原点回帰としてかつてのモアイを好んで作ってみた職人がいたのだろうと言われている。

モアイとは未来、子供という意味があり、頭に載せているプカオには穴、休養という意味がある。つまり子孫繁栄の象徴というわけだ。

立派な顔つきのモアイ・ピロ・ピロ (Moai Piro Piro)

ラノ・ララクにはたくさんのモアイと牛が共存している。
Many moai and cows

ラノ・ララクの入口そばにあるピクニックエリアで昼ごはんを食べて次の目的地へ移動。

アフ・トンガリキ (Ahu Tongariki) には 15 体のモアイが並んでいる。
アフ・トンガリキの入口には モアイ・ホトゥ・イティ (Hotu Iti) がある。

これは 1982 年に日本に来たことがあり、その時に運搬を行ったのはペリカン便だそうな。

アフ・トンガリキは祭壇が 98m、両側にそれぞれ 50m ずつウィングが付いている。17 世紀頃のモアイで 8m の高さのものもある。

ここは世界ふしぎ発見イースター島が取り上げられた回に当時のイースター島知事のセルヒオ・ラプがクレーン車があればモアイを立てられるという発言に対し、黒柳徹子さんがクレーン車を出したらどうだという発言をきっかけにタダノがクレーン車を提供し、日本とチリの協力の下に立て直された。

立て直しプロジェクトにはユネスコも関わっており、ここの立て直しが完了したところで世界遺産登録された (1995 年)。
クレーン車を降ろせるような港もないためチリ海軍が所有している戦車を運ぶような上陸用船舶を使ってクレーン車を持ち込み。回収することも出来ないのでそのまま寄贈となった。

ここのモアイは上を向いている。これは何故かというと、ボンドのような接着技術がないので 4m を越えるようなモアイは目を入れると落ちてしまう。そこで上を向かせて目を載せるようにしたためと言われている。

次の目的地はアフ・テ・ピト・クラ (Ahu Te Pito Kura)。アフの上に立てられたモアイとしては最大サイズのもの。手前の柵は馬を飼っているために立ててあるのではなく、モアイに近づかないように作った柵を馬が越えて入っているだけである。

テ・ピト・クラにはテ・ピト・オ・テ・ヘヌア (Te Pito O Te Henua) という丸い石がある。この石は磁気を帯びており、太陽を浴びてポカポカしている。

アナケナ・ビーチ (Anakena beach) にはヤシの木と白い砂浜。青い海がある。そしてここにもモアイが。
アフ・ナウ・ナウ (Ahu Nau Nau)。ここのモアイは倒れた後に砂に埋まっていたために保存状態がよく風化も少ない。博物館で見たモアイの目もここで見つかったもの。

アフ・ナウ・ナウはロイヤルな一族のもの。

ナウ・ナウの後ろにはアフ・アトゥレ・フキ (Ahu Ature Huki) がある。これはホトゥ・マトゥア (Hotu Matua) 王の記念碑であり、もっとも偉いモアイとされている。そのため立て直されたのも一番最初である。

これでイースター島巡りは終わり。夕食後に日の入りまで時間もあったので海岸で夕日とモアイを見に行くことにした。
Moais at sunset
Moais at sunset
Moais at sunset
Moais at sunset

新婚旅行 3 日目「モアイとの初遭遇」

昨日のカフェめぐりで Jugo がジュースであることは分かったが、手持ちのスペイン語辞書にはジュースは Zumo と書いてあった。ガイドさんに違いは何かと尋ねたら、厳密な違いはないがチリなどのラテン・アメリカでは Jugo を使うのが一般的とのこと。

今日はイースター島への移動日。サンチャゴからイースター島までは飛行機で 5 時間 25 分かかるので機内サービスで飲み物を頼めるようにスペイン語の勉強。

Un jugo de naranja (フゴ デ ナランハ), por favor. オレンジジュースをください
Un vino tinto (ヴィノ ティント), por favor. 赤ワインをください
Un vino blanco (ヴィノ ブランコ), por favor. 白ワインをください
Un agua, por favor. 水をください

スペイン語不定冠詞は Un と Una、Un + 男性名詞、Una + 女性名詞となる。

男性名詞 女性名詞
vino, ワイン cerveza, ビール
cafe, コーヒー
agua, 水

定冠詞の場合は el + 男性名詞, la + 女性名詞となる。

あと必要そうな表現をもう少し勉強。

No, gracias. いいえ、結構です。英語で言う No, thank you.
No, entiendo. 分かりません
Oiga. すみません。英語で言う Execuse me.

飛行機での移動を終えて、ついにイースター島 (Easter Island) に到着。ここは蒸し暑く、雨がすぐに降るという気候、ホテルにはアリが多く出るという日本のホテルとはかけ離れた環境だ。

イースター島の空港には早速独特なオブジェが。

まずはピコ湾 (Hanga Piko) の近くにあるレストラン Tataku Vave へ。ピコ湾は島の中では一番大きな船着場。Tataku Vave とは "波を数える" という意味だそうな。

レストランについて目に付いたのは港のそばにあるモアイ。ここにあるモアイはアフ・リアータ (AFU RIATA) という名前が付いている。

食事後に近くまで行ってみた。

モアイの前には野生の馬もいる。
Wild horses

昼食後はイースター島博物館に向かう。移動の車中でガイドさんにイースター島基礎知識を教えてもらった。
ガソリンは 470 ペソ/リットル。イースター島は国立公園なので税金がかからず途中の運搬費がかかっていても本土より安く買える。
島の人口は 4000 人ほど、馬のほうが人よりも多い。最近は車を使う人が増え馬離れが進んでおり、馬は遊ばせているので島中で見かける。
飲み水は火口に溜まったものが地下水として流れてきたものを使う。

イースター島博物館に到着。博物館前には謎のモニュメントが。

イースター島は火山性の島で海に出るとすぐに深くなっている。
スペイン語では Isra de Pascua という名前で Pascua がイースターという意味。現地語のラパヌイ (Rapanui) 語ではマタ・キ・テ・ランギ (Mata ki te rangi) と発音し、星を見る目という意味だそうな。
イースター島・ハワイ・ニュージーランドポリネシアン・トライアングルといい、先祖が同じ人種の人が住んでいる地域になる。

現地人が使っていた道具には Toki という玄武岩で作ったナイフ、Kau toki というハンマーがある。大きな丸石も置いてあり、これは船の中に置いておくと転がってバランスを取ってくれるので船のお守りとして使われていた。釣り針は骨で作られており、人骨を使っていた時もある。
武器は顔つきの刀も展示されていた。材料には黒曜石が使われ、これは鋭いので武器に適している。綺麗に残っているものは数百年前のものだ。
装飾品には Hami という木の皮を使ったものがあり、この木の皮は重ねておくとくっついてしまう。そのためイースター島には "縫い" の文化がない。

これはイースター島の古代文字であるロンゴロンゴ (Rongorongo)、イースター島の古代文字でポリネシアンで文字があるのはイースター島だけだった。
Rongo Rongo

女性のモアイは赤色の石で作られている。
Female moai

Aringa erua という木像もあった。意味は顔 2 つ。これは聖人の木像なのだが、イースター島は島国んおで近親婚が多かったために奇形児が生まれる。奇形児は若くして死んでしまうのだが悪いことを知る前に死んでしまうので聖人として奉られていた。
他にも モアイ・カバ・カバ (Moai kava-kava) という木像もある。これは肉が解けて肋骨が出ている。
Moai KAVA-KAVA

これはモアイの目。白目はサメの骨や珊瑚で作られ、黒目は黒曜石で作られる。
Moai's eye

博物館を見た後は海岸沿いに見えるモアイ見物。遺跡の名前はタハイ (Tahai)。

目が入っていて赤い帽子のようなプカオ (Pukao, 帽子ではなく髷であるという説が有力) を頭にのせているアフ・コテリク (Afu Koteriku)。

遺跡の名前にもなっているアフ・タハイ (Afu Tahai)。

5 体並んだアフ・バイ・ウリ (Afu Vai Uri)。

近くには復元住居がある。入口が小さく作られており、これは這って入らなければならないから先に首が入るということで進入防止の意味がある。

モアイを堪能した後は街の中心地へ移動して教会見学と買い物。

イースター島は 9 割がカトリックなのだが鳥を神様としていた信仰がもともとあったので鳥の神様やキリスト像の頭にも鳥が乗っていたりする。

イースター島の街中はこんな感じ。道路は車が走れる程度には整備されているが、信号はない。

お土産を買ったり、博物館で見た木の皮を材料とする布 (Hami) を作っているところを見たりしてホテルへ移動。明日の島内見学に備えてたっぷり夕飯を食べて寝た。

新婚旅行 2 日目「初南アメリカ大陸、サンティアゴ観光」

飛行機での長旅を終えてチリの首都であるサンティアゴ (Santiago) に到着。午前中に到着したので早速市内観光へ。

チリは人口 1600 万人。首都のサンティアゴは山に囲まれた町で東にはアンデス山脈がそびえる。
サンティアゴは人口 600 万人。人種構成はは 73% が現地人のヨーロッパ人の混血であるメスティーソ。6.5% が現地人であるマプチェ (mapuche)。残りはヨーロッパ人となっている。チリやパラグアイには黒人奴隷の歴史がないために黒人は少ない。
チリは 1540 年にスペイン軍が入植、1810 年に独立、1850 年にドイツ・オーストリア・スイスからの移民が増加している。移民には寛容な国なのでサンティアゴの街は国際色豊かな街並みで、様々な様式の建物がある。1984 年 7 月のチリ地震後に新しい建物が増えた。

サンティアゴには PROVIDENCIA, VITACURA, LAS CONDES, DOWNTOWN といった地区がある。VTACURA, LAS CONDES は新しい地区で弁護士・医者・経営者などの富裕層が多く住んでいる。ここの家は $200,000 〜 $400,00 が相場。DOWNTOWN は旧市街地である。

チリに住んでいる人の年収は US$12,000 〜 US$50,000 が 50%、US$12,000 以下が 40%、US$50,000 〜 US$100,000 が 8.5%, US$100,000 以上が 1.5% となっている。

新地区をバスでぐるっと回る。そこにはジャカランダ (Jacaranda) という南アフリカ原産の紫色の花がたくさん咲いていた。今が開花シーズンで 12 月 〜 1 月末に花をつける。
Jacaranda

市内を回ったらサンクリストバルの丘 (Cerro San Cristobal, Cerro とは丘のこと) へ。
この丘は海抜 897m。丘にはたくさんのチリ原産の植物があり、マグノリアという白い花をつける木もある。チリ原産以外ではオーストラリアから持ってきたユーカリカリフォルニア州から持ってきた松がある。丘には日本庭園もあり、これはサンティアゴの日本人コミュニティーが作ったものである。
サンクリストバルの丘からの眺め。

大気汚染がひどいので白いモヤが常にかかっているように見える。
写真の真ん中あたりに Canon のビルがある。ここから右手側が Downtown であり、左手側が新地区である。
丘には野良犬が多い。これはアパート住まいの人が犬が大きくなったために育てられなくなり捨てられた犬たちである。

丘の頂上にはマリア像 (Statue of the Virgin Mary) が立っており街を見守っている。

丘を降りて次は Downtown の中心にあるアルマス広場へ移動。

チリの仕事時間は 9 時 〜 18 時で、途中 1 時間の休憩がある。お店は 10 時 〜 19:30 または 21 時まで開いていることが多い。

Downtown ではアルマス広場から徒歩で観光。少し治安が悪いので装飾品はしまっておくようにガイドさんに言われた。
アルマス広場に到着する少し前に美術館 (Museo Chileno De Arte Precolombino, Chilean Museum of Pre Colombian Art) の横を通った。ここは 1910 年に建立された歴史ある建物でパリの宮殿をモチーフにしている。

アルマス広場 (Plaza de Armas) に到着。ここはスペインが入植してきた時の中心となった場所で Armas とは Arms、つまり "武器" のことである。

広場の北には市役所 (Municipalidad De Santiago)

かつてはスペイン裁判所であった歴史博物館 (Museo Historico Nacional)

かつてはスペイン統治者の住居であり今は郵便局として使われている建物がある。

広場の西にはイタリア人がデザインしたサンティアゴ教会 (Catedral Metropolitana de Santiago) がある。

教会の中にチリの聖人の像やドイツの修道院から運んできた銀作りのチャペルがある。この中にはパンのカケラがあり、礼拝の時には教会の中心に移動する。
Silver chapel at Catedral Metropolitana de Santiago

アルマス広場で少し休憩した後は Downtown を散歩。
アルマス広場から南西に向かうとチリの大統領府 (Presidencia De La Republica) がある。この建物はイタリアの建築家が造ったものでモネダ・パレス (La Moneda Palace, Moneda は Mint, コインのこと) という名前が付いている。スペイン占領下時は造幣局として使用さえていた建物だ。大統領府といっても日本の首相官邸とは異なりオフィスとしての機能しかない。大統領も住居は自分の家を使っている。

護衛は軍隊ではなく警察の超エリートが行っているそうな。
この辺りは経済産業省や外務省もある官庁街なので警察がたくさんいた。

サンティアゴの Downtown には中央銀行、官公庁があってビジネスの中心なので人も多い。

ガイドさんが付いての市内観光後はホテルへ移動。まだ日が出ており、夕食まで時間もあったのでホテルのそばを散歩してカフェに入ってみた。
メニューに何が書いてあるのか分からないまま Mananza nectar と Cafe con leche、そして Croissant (クロワッサン) を 1 つ注文した。出てきたものは瓶詰めのリンゴジュースとミルク入りのコーヒーだった。クロワッサンはサンティアゴでは有名らしくたくさんのカフェでクロワッサンを置いていた。クロワッサンは日本のサクサクしたものとは異なり、あまりバター味はせず歯ごたえのあるものだった。

jugo (フゴ) ジュース
nectar 蜜, 加糖されたジュース
ntural 生絞りジュース
mananza リンゴ
cafe freddo 既に甘みを付けてあるアイスエスプレッソ
helado アイスクリーム
cafe con leche ミルク入りコーヒー, con は with, leche は牛乳

新婚旅行 1 日目「出発」

今日から新婚旅行に出発。目的地はイースター島ガラパゴス諸島。最初の目的地であるイースター島にはチリのサンティアゴに寄ってから向かう。
サンティアゴまではほぼ 1 日かけての移動。

成田
9 時間 35 分
ロサンゼルス 乗り換え: 4 時間 35 分
8 時間 35 分
リマ 乗り換え: 1 時間 15 分
3 時間 20 分
サンティアゴ

単純計算で 27 時間 20 分の旅。今までにない最長記録だ。

スペイン語圏へ行くのも初めてなので必要そうなものを覚えておこう。
(m) は男性名詞, (f) は女性名詞。

ビールをください Una cerveza, por favor. por favor は英語の please にあたるもの
おはようございます Buenos dias dia (m): 日
こんにちは Buenas trades trade (f): 午後
こんばんは Buenas noches noche (f): 夜

Buenos は good. 後ろに続く単語が女性名詞の場合は buenas になる。